中国、これまでの20年と駐在員(1) 

1995年に筆者は初めて中国・北京に赴いた。2015年の今年、あれからちょうど20年が経とうしている。

当時、中国で最も驚いたのは「安さ」であろうか。中国語が少し話せた筆者は、ランチはよく屋台で「盒飯」(お弁当)を買って食べていた。大体3元(当時の為替レートで30-40円)ほどであり、日本に比べると小ぶりの「包子」(肉まん、1個5-6円)を3個ほど併せて買っても5元に満たない程であった。レストランでの食事も安かった。日本からの出張者3人とレストランに行き、ビール数本、料理を2皿、北京ダックを注文しても合計70-80元(約800-900円)ぐらいであっただろうか。もちろん今の中国でも、頑張れば10元以下でランチをとることはできるだろう。しかし、普通にオフィス街でランチをとろうとすると50-60元(現在の為替レートで900-1000 円)になることはよくある。また、夜に出張者や同僚と外食となると3人で700-800元(約12,000-14,000円)を超えることは稀ではない。

街で見かける光景も変わった。当時、車といえば社用車かタクシーぐらいであり、自転車に乗っている人をよく見かけた。朝の自転車ラッシュは圧倒されるものがあった。また、北京の環状線では大荷物を積んだ馬車も見かけた。ところが今は地下鉄が整備され、通勤ラッシュが日常化し、自家用車によって渋滞が起こっている。また、フェラーリなど高級車を見かける機会は東京よりも多い(日本と中国の経済的つながりが緊密になり、中国を訪れる日本人も多くなった。最近の中国の様子をご存じの方は多いだろう)。

見方や視点は様々あると思うが、筆者と同じように昨今中国において「変化」を感じている人は数多くいるのではないか。そこで、筆者個人的な節目で恐縮ではあるものの、これを機に1995年あたりから現在に至るまでの20年間、日系企業が中国で抱えていた課題やその課題解決のために派遣されていた駐在員の役割や要件について振り返ってみたい。

紙面の都合上、20年間をいくつかの期間に区分し、数回に分けて振り返ってみたい。そして、それら振り返りの中から、海外現地法人でどのような課題を抱えている場合、どのような人材を派遣すべきか、海外進出のステージに応じた駐在の要件についても探ってみたい。

1. 進出初期 - 「近くて遠い国」の駐在員(1995年-2000年) -

1992年の鄧小平の「南巡講和」により外資企業の対中投資が促され、1990年代後半、日系企業は、その廉価で豊富な労働力を通じたコスト削減を求めて中国への進出を加速させはじめる。生産拠点を日本から中国へと移し、中国を輸出の生産拠点としていったのである。

進出して間もない当時、日系企業が直面していた課題は、増値税の不還付の問題、行政機関による「乱収費」(不当な費用徴収)、優遇措置の取り消し、中国企業からの債権回収の困難さといった日本国内のビジネスでは考えられないような問題ばかりであった(筆者のある取引先財務担当者のKPIは「如何に支払を遅らせるか(!?)」であったという・・・) 。まさに、「日本の常識が通用しない」といった問題に常に直面していた。そして、社内のマネジメントについても同様であった。ここで、当時の日本人駐在員の中国人社員に対する態度を紹介したい。

「いわゆる5S(整理・整頓・清掃・清潔・習慣)の実施であったが、工場内に白線一本を引くまでに丸一年かかった・・・(略)・・・これらは日本人にとっては常識である。ところが、中国側からすれば、それは常識ではない。5Sがなぜ品質向上につながるのか、そもそも品質がなぜ重要なのか、これらをひとつひとつ説明して理解してもらわなければならない。このようなケースは枚挙に暇がないほどである」(今田・園田、1996年、pp.137-139)*

もちろん上記は一例にすぎないが、当時の日本人駐在員にとって、中国人社員は日本人とは異質で、日本の常識は通用しないものとして認識しており、「このやり方でやればうまくいくのだから、とにかく日本のやり方を勉強してくれ」(今田・園田、1996年、p.139)*と連呼していた人が多かった。

「中国人は日本人とは違う」、「日本の常識は通用しない」という態度は、日本人駐在員によって他にも数多く語られている。中国人を「基本的によくわからない」、「常識が通用しない」、「気を抜くと奪われてしまう」という"性悪説"で捉え、日本人駐在員は「奪われてたまるか」という態度になり、中国人従業員に対して疑心暗鬼が生じるようになる。そして、最終的には「中国人従業員には会社を任せられない」という態度に繋がっていたのである。さらには、任せられないだけに留まらず「うまくやるには目を離さないことが重要ですね」(園田、2000年、p.34)*という態度をもつ日本人駐在員もいた。

地理的には隣同士なのに、日本の常識が通用しない国、つまり、「近くて遠い国」で、廉価な労働力を活用し、日本と同じものを作り、製品を輸出する。または、中国の富裕層向け、あるいは中国に進出した日系企業向けに日本と同じ品質の製品やサービスを中国国内で提供することが当時における事業の主体であった。そのため日本と異なる国で、如何に「日本式」で、日本と同じオペレーションを展開するかが当時の課題であり、中国で求められた駐在員は、中国文化・言語・ビジネス慣習に精通し、「日本式」を中国に伝え、浸透・定着させることができる社員であった。

当時の中国拠点は日本本社の事業を推進するための出先機関に過ぎず、あくまで「日本式」の延長線上でマネジメントが展開されるステージであった。そうしたステージにおいては、「中国を知る」人材が求められており、そうした人材が自社にいない場合は、現地における「日本通」獲得に向けた取り組みが強化されていた(高水準な「日本語手当」なるものが支給されていたのもこの頃であった)。中国に限らず、「xx(進出先国)通」の駐在員及び「日本通」の現地社員によって現地の課題を解決しようとするスタイルは、海外進出初期段階における日系企業の特徴の1つかもしれない。

そうこうしているうちに2000年代に突入する。

2001年中国がWTOに加盟する前後、ビジネス上のインフラ環境が整備され、外資企業の対中投資が更に拡大し、中国における事業規模が拡大する。そうなると現地のマネジメントは、上記で紹介した「中国通」や「日本通」だけでは立ち行かなくなる。

次回は2000年代に在中日系企業が抱えていた課題と、それに応じた駐在員の役割、そして、そこから浮かび上がる駐在員要件について考察したい。

(続く)

*参考文献:
今田高俊、園田茂人 『アジアからの視線―日系企業で働く1万人からみた「日本」』 東京大学出版会 1996年
園田茂人 『アジアと日本の信頼形成-日本人駐在員経験者への聞きとり調査 資料集(Ⅱ)』 2000年
著者
内村 幸司

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