虚心坦懐に、批判的思考で取り組む、人的資本経営 

14 6月 2022

2022年は人的資本経営元年

昨年から今年にかけて、日本国内で人的資本経営に係る議論が活発化している。2021年6月に改訂されたコーポレートガバナンスコードの人的資本の投資・開示への言及に始まり、2022年5月には一橋大学の伊藤邦雄教授を座長とする経産省「人的資本経営の実現に向けた検討会」から「人材版伊藤レポート2.01」が公表された。また、政府は2022年夏をめどに人的資本の開示に向けた指針を公表する予定で、現在内閣官房の管轄のもと、同じく伊藤教授が座長を務める「非財務情報可視化研究会2」にてその準備が進められている。このように、政府・省庁は人的資本経営を推進するための活動に力を入れており、この動きに前後して企業も人的資本経営への言及、およびその実現に向けた各種取組みが活発化している2022年は、 “人的資本経営の元年”と言って差し支えないだろう。マーサーのBig Pictureコラム「人的資本開示によせて」も本稿と併せてご覧いただきたい。

なぜ人的資本経営に関する議論が活発なのか?

人的資本経営が、なぜこれほどまでに活発に議論されているのだろうか?この点について簡単におさらいしておきたい。

まず、人的資本経営とは「人材を『資本』として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値の向上につなげる経営のあり方」と定義されている3。言い換えると、人材は企業にとって管理する対象や費用計上するコストではなく、投資によって伸縮しうる資本であり、付加価値を生み出すものとして捉え、企業価値の向上につなげていくとの考え方である。

なぜこの人的資本経営が注目されているかでいえば、現代では企業の競争優位性の源泉が有形資産から無形資産へとシフトしていることが根本にある。米国の事例だが、S&P500企業の時価総額構成に関して、無形資産の割合が2020年には90%まで高まっており、米国市場においては無形資産に対する評価が大宗を占めている4。そして、この無形資産の中核を担うのが、模倣や獲得が難しい人的資本である。加えて投資家は日本企業が重視すべきと考えているものに人材投資を挙げ、企業経営層も企業価値へ影響を与える課題として人的資本の開発・活用を挙げている5など、投資家・経営側ともに企業の競争力の源泉が人的資本であるとの確信が強まり、昨今一番の関心事になっているのである。

人材版伊藤レポート2.0の活用

人的資本経営とは何か、なぜ今注目が集まっているのかを概観したが、この点について異論のある読者はいないように思う。問題はこの先の、どのようにして人的資本経営に取り組めば良いのか、である。5月に公表された「人材版伊藤レポート2.0」はその問いに答えるかのように、人的資本経営に取り組む必要性の提言だけでなく、実行に移す上での取組み、及びその取組みを進める上でのポイントや有効となる工夫を示している。

まさに人的資本経営の処方箋である人材版伊藤レポート2.0の活用法について、筆者が重要だと思うのは①虚心坦懐に読む、その次に②批判的に読む、ということだ。長編である当レポートを読み進めていると、いくつかの点では自社ですでに実施している取組みとリンクし、「対応済み」として一つひとつの項目に対する追求が止まってしまう可能性がある。幾度の議論を重ねて作られたレポートを素通りしてしまうのは大変もったいない。その次に重要なのが、批判的に読む、言い方を変えれば鵜呑みにしないことである。念のため申し添えておくと、これは何も当レポートを反論・反対するために申し上げているのではない。当レポート内でも言及されているように、企業によってその事業内容や置かれた環境は様々であり、外形的に当てはめた行動は意味をなさない。そのため、当レポート内で提示されている各項目について、自社に当てはめる際に「本当にそうか?」という批判的思考を持ち、多様な角度から検討されたい。

例えば、当レポートでは、項目のすべてをチェックリスト的に取り組むことを求めるものではないと言及されている。確かに、各項目をすべからくそのままアクションリストにして上から順に対応していく、というような無思考での使用はいただけない。ただ、自社の人事戦略がぼんやりとしており、経営メンバーや人事の間でも共通認識が乏しい場合などに、自社の取組みの実効性確認を目的に、各項目を自社の「現在地確認リスト」として使う分には有用であると考えている。「今何ができていて、何ができていないのか」を認識してからこそ、ようやくできていない背景、原因の特定、その解決に取り組む優先度づけといった戦略づくりがスタートするからである。

また、推奨されているアプローチをそのまま適用するのではなく、「本当にそうか?」という視点を持って検討をしてから自社に適用されたい。例えば、当レポートでA→Bの順での検討を推奨されている場合、B→Aはどうだろうか?A→Cもあり得るのではないか?と、当たり前を疑う思考により新たな発想を生み出すのも有用である。

具体的に、企業独自の発想で人的資本経営に取り組む事例を2例紹介したい。いずれの企業も、発想の転換を活かし、結果として独自の経営ストーリーが生まれている好事例である。

人事戦略に基づき経営戦略を導き出すキリンホールディングス

1つ目は、人材版伊藤レポート2.0の事例集でも取り上げられていた、キリンホールディングスの例である(以下図))。当企業は、「経営戦略と人材戦略の連動」について独自の視点を持っている。一般に「経営戦略と人事戦略の連動」をテーマに示される指針は、「経営戦略実現の障害となる人材面の課題を整理し、優先順位を決め、効果を見極めて改善する」という、経営戦略から人材戦略を導き出すアプローチであろう。まさにこれは正論で、正攻法である。この点、キリンホールディングスは発想を転換させ、人事戦略から経営戦略という逆のアプローチを採用している。具体的には、既存の食領域・医領域で培った組織としての中核的な能力(コアコンピタンス)に基づいて、ヘルスサイエンス領域への参入を決断した。一方で、事業を強化するために専門人材を採用するなど経営戦略から人事戦略への落とし込みもなされており、経営戦略、人事戦略どちらかのみ起点の一方通行のアプローチではなく、相互が強く連携しながら影響を与え合う関係で戦略が構成されている。当企業の事例から学べるのは、経営戦略と人事戦略の策定は経営戦略起点の一方通行ではなく双方向のアプローチの実現可能性、それぞれの連携を超え互いに影響を与え合う戦略同士の協創を図ることで、その企業らしい独自の経営ストーリーが作られるという点である。

 

「人材版伊藤レポート2.0 実践事例集」より

 

社員の市場価値を高めることが社内の人的資本を高めると考えるカゴメ

2つ目にご紹介したいのは、カゴメの例である。当企業は「自律的なキャリア形成・リスキルの支援」の観点で独自の視点を持っていると筆者は考える。2020年版の人材版伊藤レポートの時から提言されている「変革の方向性」の中で、個と組織の関係は、「相互依存」から「個の自律・活性化」へ、雇用コミュニティの観点でも「囲い込み型」から「選び、選ばれる関係」への変革を提唱している(以下図表)。カゴメはこの変革に向けた戦略として、「従業員のマーケット・バリューを上げ、強い個人の集団」を目指すと統合レポートで明言している6。すなわち、企業の外に広がる労働市場の基準をもとに、そこで価値の高さが認められるような人材を育てるアプローチを取っている。自律的なキャリア形成やリスキル・学び直しの観点では、自社のこの先の組織・人材と今の組織・人材とのギャップを特定し、そのギャップを基準に自律的なキャリア形成、リスキル・学び直しの支援を行うアプローチが多いが、当企業では、発想を転換して自社の中ではなく外に目を向け、外の世界で価値を高めることこそ人的資本の拡充につながり、それが自社の経営戦略の実現、ひいては企業価値の向上につながると考えている点に独自のストーリーがある。加えて、経営として人材の外部競争力の向上を支援することこそが、逆説的に自社への定着、エンゲージメントの向上にもつながると想定しているであろう。

 

「人材版伊藤レポート2.0」より

 

人的資本経営の推進に向けて

冒頭で述べた通り、2022年は人的資本経営元年と言える。人材版伊藤レポート2.0に加え、夏に公表されるであろう人的資本開示の指針と合わせて、この先2023年にかけて人的資本経営とその開示に取組む企業の勢いは増すことが想像される。各種レポートも指針も、企業経営には有用でありぜひとも活用されたいものではあるが、虚心坦懐に眺めつつ、批判的思考で向き合い、自社の文脈を活かした独自のストーリーを描きながら形式的対応ではなく実質的活用が進むことを、期待したい。

 

著者
枝 侑加
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