ライブラリ / 「経営×人・組織」視点の対談 C-Suite Talk Live / 第27回(1/4)
第27回 TDK株式会社 常勤顧問 鈴木 武夫さん

C-Suite Talk Live 第27回 ~対談エッセンス~
- 火中の栗を拾う男
- ハンツヴィルでのセールス研修
- 挨拶、そしてタバコの吸殻拾い
- 「これがあなたの命を守るんです」
- 命まで取られるわけじゃない
- 一心に思うこと、逃げないこと
火中の栗を拾う男
古森こんにちは。本日はよろしくお願い致します。この対談、何かヒントになること、刺激になることを伝えられたら・・・という思いで、続けております。鈴木さんは、「火中の栗を拾う」男として、2000年に日経ビジネスから取材を受けられましたね。火中の栗を拾った「その後」の話を含め、色々な武勇伝をお聞かせ頂ければと思っております。
鈴木 お役に立てればいいのですが。
古森 2000年の、この記事でしたよね・・・。
(注:記事原文より抜粋。日経BP社の了承を得て掲載しています)
鈴木 そうです。当時この記事を見て、社内の連中に「お前らは火中の栗か。ならば、はじけてみろ!」などと檄を飛ばしたのを思い出します。
古森記事によれば、随分と込み入った状況の中で経営を引き受けられたのですね。
鈴木 「小」(ネミック・ラムダ)が「大」(日本電気精器)を飲むと言われたM&Aが進行中で、その最中の推進派社長退任でしたからね。さらに、社長の退任に伴って、M&Aを担当していた役員・幹部社員も皆辞めることになってしまった為、M&Aの対応がほとんど進んでおらず、混乱の中でバトンを受けました。
古森 火中の栗を拾うというより、燃え盛る火の中に飛び込むという感じですね。飛び乗った超特急列車がごうごう燃えているような風景を、私はイメージしてしまいました。それで、結局はどのようにして舵取りをしていかれたのですか。
鈴木人員の削減・工場閉鎖・事業整理を条件に採用されましたから、シナリオは当初から用意されていたと言えます。まず、ノンコア・ビジネスの整理です。中核分野ではない事業の整理を進めました。2003年あたりまでは市況も良かったので、比較的前向きな形で対応できました。一方、両社の文化や常識の違いをあわせていくのには、苦労しましたね。
古森 M&Aの、いわゆる「ポスト・マージャー・インテグレーション」期の典型的な課題ですね。
鈴木 文化の違いの例を言いますと、旧電気精器は「紙の文化」です。残業申請なども紙で処理するわけです。一方、旧ネミック・ラムダは「Lotus Notes」の文化。残業申請もNotesを使って画面上で出していました。こういう日常の仕事の進め方から、管理会計のプロセスまで違いがあり、当初は混乱しました。
古森そうした混乱を鎮めていく上で、経営トップとして心がけたことは何だったのでしょうか。
鈴木 実態を知る為に「徹底的に現場に行った」ということです。
古森 経営者自ら現場へ
鈴木 ええ。経営者に「書斎派」と「現場派」があるとすれば、私は「現場派」です。とにかく動くようにしました。現場に知恵と利益の源泉があるという経験則があります。製造業では、工場が川上にあたりますが、その川上の現場をとにかく歩いて話を聞いて回ると、実態が皮膚感覚で感じるようになり改善のヒントが出てきます。
古森 実際、現場に入ってどのような活動をされたのでしょうか。
鈴木 お役に立てればいいのですが。
古森 2000年の、この記事でしたよね・・・。
(注:記事原文より抜粋。日経BP社の了承を得て掲載しています)
混迷デンセイ・ラムダで火中の栗拾い (日経ビジネス 2000年3月6日号 / nikkei BP net) ・・・99年6月に(ケンウッドの)取締役退任後、デンセイ・ラムダ社長に転じたが、デンセイ・ラムダの業績は厳しい。不採算部門を多く抱えた日本電精の売り上げ鈍化や合併後のリストラ費用を特別損失に計上したことから、2000年3月期の売上高は349億円と13%の下方修正、経常利益で12億円を超える赤字を見込む。その状況で社長に就任するのは火中の栗を拾うようなものだ。だが、鈴木社長は「電源機器のような産業機器は民生機器と比べて焦点を絞りやすいから経営戦略も立てやすい」と意外に楽観的。 |
鈴木 そうです。当時この記事を見て、社内の連中に「お前らは火中の栗か。ならば、はじけてみろ!」などと檄を飛ばしたのを思い出します。
古森記事によれば、随分と込み入った状況の中で経営を引き受けられたのですね。

古森 火中の栗を拾うというより、燃え盛る火の中に飛び込むという感じですね。飛び乗った超特急列車がごうごう燃えているような風景を、私はイメージしてしまいました。それで、結局はどのようにして舵取りをしていかれたのですか。
鈴木人員の削減・工場閉鎖・事業整理を条件に採用されましたから、シナリオは当初から用意されていたと言えます。まず、ノンコア・ビジネスの整理です。中核分野ではない事業の整理を進めました。2003年あたりまでは市況も良かったので、比較的前向きな形で対応できました。一方、両社の文化や常識の違いをあわせていくのには、苦労しましたね。
古森 M&Aの、いわゆる「ポスト・マージャー・インテグレーション」期の典型的な課題ですね。
鈴木 文化の違いの例を言いますと、旧電気精器は「紙の文化」です。残業申請なども紙で処理するわけです。一方、旧ネミック・ラムダは「Lotus Notes」の文化。残業申請もNotesを使って画面上で出していました。こういう日常の仕事の進め方から、管理会計のプロセスまで違いがあり、当初は混乱しました。
古森そうした混乱を鎮めていく上で、経営トップとして心がけたことは何だったのでしょうか。
鈴木 実態を知る為に「徹底的に現場に行った」ということです。
古森 経営者自ら現場へ
鈴木 ええ。経営者に「書斎派」と「現場派」があるとすれば、私は「現場派」です。とにかく動くようにしました。現場に知恵と利益の源泉があるという経験則があります。製造業では、工場が川上にあたりますが、その川上の現場をとにかく歩いて話を聞いて回ると、実態が皮膚感覚で感じるようになり改善のヒントが出てきます。
古森 実際、現場に入ってどのような活動をされたのでしょうか。
鈴木 武夫さん プロフィール
1967年に京都大学経済学部をご卒業後、日本輸出入銀行でキャリアをスタートされました。その後、1974年に靜甲株式会社取締役、1980年に同社常務取締役。1981年には、米国のMITスローンビジネススクールで研鑽を積まれました。
1982年に株式会社ケンウッドに入社され、1996年に常務取締役。2000年2月に、デンセイ・ラムダ株式会社(現TDKラムダ株式会社)代表取締役社長に就任されました。
この4月にTDKラムダ株式会社の社長を後任に譲りTDK株式会社の常務執行役員、及び TDKラムダ株式会社の取締役を6月まで勤められ現在はTDKの常勤顧問として活躍しておられます。
1967年に京都大学経済学部をご卒業後、日本輸出入銀行でキャリアをスタートされました。その後、1974年に靜甲株式会社取締役、1980年に同社常務取締役。1981年には、米国のMITスローンビジネススクールで研鑽を積まれました。
1982年に株式会社ケンウッドに入社され、1996年に常務取締役。2000年2月に、デンセイ・ラムダ株式会社(現TDKラムダ株式会社)代表取締役社長に就任されました。
この4月にTDKラムダ株式会社の社長を後任に譲りTDK株式会社の常務執行役員、及び TDKラムダ株式会社の取締役を6月まで勤められ現在はTDKの常勤顧問として活躍しておられます。